持たざる国の戦艦「大和」の運命:日本の命運を託された技術者の情熱【大和轟沈75年 1945.04.07滅失への道】
戦艦「大和」の生涯~構想から終焉まで~②
■海軍省内16畳の一室で6人の男の全智嚢を集結
海軍艦政本部は、軍令部の新提案に対し、直ちに研究に着手した。
主砲18.11インチ砲8門以上搭載の提案には、第一部の菱川万三郎造兵大佐と呉海軍工廠砲熕部の秦千代吉技師が、永年の研究成果に基づいて対処した。戦闘距離2万~3万5,000メートルに対する防御甲鈑に関しては、呉海軍工廠製鋼部の佐々川清造兵大佐が反応した。速力と航続距離の問題は、第五部の渋谷隆太郎機関大佐が取り組んだ。
18.11インチ砲搭載の新戦艦に関する基本計画は、第四部基本計画主任の福田啓二造船大佐が全責任を負った。
基本計画とは、兵装と速力とが示されていても、排水量が分らなければ艦の長さも決まらず、船殻防御の配置、重量等も決定出来ないので、まず経験とデータに基づいて重量を配分し、模索しながら艦としての姿を纏め上げる作業を総括することである。
艦船の計画で最初に解決しなくてはならない最も重要な問題は、重量の配分と主要寸法の決定だった。
重量配分は、船体、兵器、機関等の全重量を如何に限られた排水量の中で適当に割り当てるか、基本計画の最重要な部分であり、責任者が非常に苦心するところでもあった。艦の安定性能の設計で失敗することは、造船技術者の大きな恥だったのである。
この研究に有力な指針を与えたのは、1916(大正5)年頃のいわゆる「八八」艦隊計画当時に設計された「加賀」「赤城」「紀伊」などの40,000トンを超える艦の設計にあった。
当時の重量配分の一例を示すと、戦艦において船殻30、防御30、艤装4、斉備品3、兵器19、機関11、燃料3、バラスト0だった。
福田基本計画主任は、海軍艦政本部内の通常の艦艇設計現場から離れた海軍省内の16畳ほどの一室で、極めて高度な機密事項の研究を始めた。造船関係の設計研究陣容は6人で、彼らによって後に「大和」型戦艦となる新戦艦の基本構想研究が歩み出したのである。
●一般配置および諸装置担当の岡村博技師
●船体構造(防御とも)担当の仲野綱吉、沢田正躬両技師
●諸計算担当の今井信男技師
●総合連絡担当の松本喜太郎造船少佐
設計研究が進むにつれ、関与する陣容が次第に増えてきた。造船の龍三郎、牧野茂両造船少佐、土本卯之助技師など、それぞれの専門分野の達人が、この国運を賭けた大仕事に情熱を燃やし、身も心も打ち込んだのである。
(原勝洋 編著『戦艦大和建造秘録 完全復刻改訂版』より)
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『戦艦大和建造秘録 【完全復刻改訂版】[資料・写真集] 』
原 勝洋 (著)
なぜ、「大和」は活躍できなかったのか?
なぜ、「大和」は航空戦力を前に「無用の長物」だったのか?
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【大型折込付録】
大和船体被害状況図(比島沖海戦時)
大和・復元図面 ①一般配置図 ②船体線図/中央切断図/防御要領図